・「業界批判は重要」
アニメーションの国策化は早晩に失敗するという意見には大筋で賛成でした。
意見の客観性については、判断の難しいところですが、そもそもアニメーション業界は、業界批判をする媒体がないと言う致命的な欠陥を持っている業界であると思っています。アニメージュから日経Charactersまで、アニメ雑誌は他業界のメディアと違って、「アニメが当たって欲しい、売れる作品が出て欲しい」と言う姿勢で、制作会社からの情報をサブリミナルしているだけという状況は、一業界として余り健全とは言えないと思っていました。
業界に対してちゃんと問題点を指摘出来るような媒体が、存在しなければ、いつまで経っても、アニメーターの給与体系の改善など、収益改善のためのビジネスモデルの構築など、長年叫ばれていた問題を解決するための業界再編が行われず、業界自体が消滅してしまうと言う最悪の事態を避けれらないのでは?と思います。
こうした正論は、まず発言することが最も重要だと思うので、そう言った意味で、星は4つです。
結果として、「産業政策について、経済産業省が後押して成功した産業はない」という根強い意見に、新たな正当性を与えるであろうことは十中八九間違いないと思いますが、それとは別に、省庁に良いようにされた後に、業界が停滞するという著者の予想する結末よりは、省庁を踏み台にしてステップアップするようなしたたかさを業界には、希望します。
・「一部二部を分冊してもよかったかも」
読む人の興味しだいで感心する部分とまったくいらない部分が分かれる本。個人的には所詮は娯楽である以上、漫画やアニメをあまり無闇に哲学的に捉えるのは娯楽の躍動感を無視した頭でっかちな考えに過ぎると思うので、第一部は無味乾燥な内容でしかなかったが、第二部はこの業界の経営体制の貧弱さに対する憤慨がこめられていてなかなか読ませてもらった。結構すでに俎上に挙がっている話しだとは思うが、一般論壇でアニメ業界のさまざまな意味での貧しさを正面から説いたのは評価に値すると思う。アニメ業界が夢がある業界になるのはまだまだ先か、それともすでに終焉が来ているのか。思想よりもまずは安定したメシから始めましょうよ、と単純に言ってくれれば話は簡単にまとまるのだけど、第一部でアウトローな左派思考を展開しているので、みずから自説の着地点を難しくしているところが難点か。
・「“国策としてのジャパニメーション”に冷水」
大塚英志はいつもやっかいな役回りを引き受ける。今回は“国策としてのジャパニメーション”に冷水を浴びせかける役どころだ。なんとなく日本が世界に認められように思い込んでイイ気になってる彼らや僕ら。そこに擦り寄ってくる「国家」。「国家が下心なしにサブカルに近づいてくるのかよ!」と、著者はその胡散臭さを指摘する。“国策としてのジャパニメーション”の下心は2つ。「日本経済のある部分をアニメやコミックに担わせていこうということ」。こっちはわかりやすいし、ほっといても絵に描いた餅である。やっかいなのは「文化ナショナリズムと結びつけようとする意志」の方だろう。 大塚のこの本での仕事はもちろん、“国策としてのジャパニメーション”の背景を指摘するにとどまらない。あたかも“トリビアの泉”のごとく薀蓄化する近年のまんが批評やまんが研究にあえて「歴史」というパースペクティブの必要性を説き、実際に昭和初頭からのまんが史を敷衍する。“まんがの起源”って言うと手塚「新宝島」から一気に「鳥獣戯画」や「北斎漫画」にさかのぼっちゃう史観に対し、ベティ・ブープやミッキーマウスの流入により巻き起こった昭和初期のキャラクターブーム、その後戦中戦後を通しての、“「私」の容れ物としての「キャラクター」”と“記号的リアリズム”の変遷を丹念に辿っていく。さらにはそうしたまんが史の中に位置づけることで、手塚治虫の意味をあらためて発見していく。 まんが表現の技術、方法論の主要な部分が「戦時下」という状況によって生み出されたことや、「おたく」の萌芽が「戦時下」に見出されたことなど、いつもながらの“目から鱗”で、夢中でページを繰ってしまった。 統計資料からジャパニメーションの虚妄を検証していく本書後半は、こんなことまで大塚英志にやらすなよ、といった内容で明らかに失速。
・「表題通りの内容か?」
本の趣旨は、第2部の冒頭にある「ぼくたちのまんが・アニメに国は口出ししないで」ということに尽きる。その趣旨から考えると、本の前半3分の2を占める大塚の戦前〜戦後のまんがにおける身体論などは、趣旨とはほとんど関係なく不要だ(これはこれとして興味深い論だが)。「ジャパニメーションがなぜ敗れるか」を知りたくて読んでるはずなのに、「プロレタリア詩人・小熊秀雄」のことが何十ページもわたって出てくるというのは、いささか閉口する。
また、同書の中では再三「ぼくら、まんが・アニメ関係者」と強調するが、ぼくたちにしかサブカルは分からないという特権意識がありありと見えてかなりうっとうしい。最後には「サブカルチャーが国家に支援されるのは負け」とし、「ぼくはその負け方は絶対に拒否します」という力の入り方が怖い。
ただ、誇大に喧伝される「コンテンツ産業」なるものの市場規模がいかに小さいかとか、コンテンツでハリウッドに勝てるんじゃないかというのが幻想であるということをデータから論証している。最近「ジャパンクール」礼賛一辺倒に陥っている現状に、本書は冷水を浴びせる貴重な1冊だ。
・「好き嫌いは別にして十分興味深い内容」
本書の第二章は最近、やたらと過剰に盛り上がりつつある日本のアニメーションの現状が、一体、本当はどういうものなのか、また周囲の期待とどうズレているのか、また、その中でどういったことが必要なのかということを具体的にドキュメントしていると思います。
・「政治性批判という政治性に満ちた奇妙なサブカル評論」
前半三分の二は『教養としてのまんが・アニメ』の発展で、まんがキャラの身体性とか記号性とかいう例の大塚節になじんでいないと少々追うのはつらいことだろう。
単純化するに、昭和初期にUSアニメが日本で人気→日本まんがに影響→和製キャラクターたち多数登場 そこに日本がファシズムの道へ→兵器描写が子どもまんがで増加→映画的まんが手法が台頭→敗戦 というのが前半の主旨である。
正直面白い。しかし、ここから論がおかしくなっていく。
イラク戦争が事実上続いている今、日本は戦時下にあるのと同じであり、つまりは昭和戦時中(日中戦争含む)と同じ時代をわれわれは生きているのだという(そこまでは言明していないがこの著者は前著からして『戦時下のおたく』だった)。
この前提の上でこう語られてくる。『のらくろ』では人があんなに死ぬのにマンガチックに処理されて終わりだったのは、つまりはまんがはナショナリズムに契合しやすいものだからだという。そうなんでしょうね。でも『ガンダムW』の核使用に生々しさがなかったのも同じことなのだ、というのはこじつけにすぎないか。あれはむしろ東西冷戦の終結とともに核による世界の破滅という話ではアニメでもリアリティがもてなくなったからではないだろうか。
そもそも、戦前昭和におけるUSアニメの波+国のファシズム化が日本のこどもまんがを進化させたというけれど、それだったら日本以外の国でもMANGA的OTAKU的なるものが生まれてなければおかしくはないか。この二要素は必要条件ではあっても十分条件とは呼べまい。
飛びぬけた洞察力を持ちながらも、戦後民主主義の信奉者を自負する氏の性だろうか、いつもの偏屈さが今回も行間から漂ってくる。小泉総理の靖国参拝批判という、いかにもな締めからしてイカしているではないか!
・「言葉が背後に担うもの」
最後のページで著者は次のように言い切る。「戦後のまんが/アニメ史は、戦争という経験の中で達成された倫理を 内包しています。それは、ぼくたちの表現が唯一、ハリウッドから 自立しえた部分です。」この文章に対して「自明である。全くその通りである。」と私は思うのだけれど、生理的に受けつけない人も多いのだろうな。自身が「あたりまえ」と思うことが、他者にとっては「サヨク」と見なされるのは、貴重な体験である。自分が「論証の必要などない、人情の自然」のように感じることが、多くの他者から「イデオロギッシュなクリシェ」と取られる場面で、「そうか、どうしたら他者に通じる言葉を提示できるか、鍛錬を続けなければいけないんだ」と気づかされる。このような副次的な効果も持つ、おもしろい本です。
・「関係者なのに現場と乖離?」
ひたすら「朝日新聞的杞憂」に終始。漫画やアニメを政治利用したいのは筆者のほうでは?歴史にはその当時の事情があり、著者にとって気にくわない流れがあったとしてもその根底には作者達の「絵を描いて発表したい」「自分の才能で金を稼ぎたい」という願望がある。どうもその視点が本書には欠けている。歴史分析だけで創作動機を語るのは苦しい。
【「ジャパニメーション&MANGA旋風」は 短期的な流行で国策とするには程遠い】には同意。
漫画・アニメをプロパガンダに利用されたくないと訴えるにはいささか著者の「過剰な杞憂」が胡散臭くみえて、むしろ逆方向のプロパガンダに見える。
・「戦後まんが=戦後民主主義の擁護(平和憲法はディズニーである)」
「ジャパニメーション」(とやら)の国策化に著者が猛烈に反発する本質的な理由は、p280に簡潔にまとめられている。「戦後のまんが/アニメは、戦争という経験のなかで達成された倫理を内包しています。それはぼくたちの表現が唯一、ハリウッドから自立しえた部分です。ハリウッドはそれを簡単には回収できない。できないから切り捨てようとする。だからこそぼくたちは戦後まんがの倫理性を『世界化』と言いつつ一緒に放棄してはまずいのです」。 著者はまず、日本まんがの本質はディズニーの二次創作と言う(p106)。そして「戦後まんが」はこの母胎から、手塚における2度の屈折によって生まれた。第1に「戦時下のまんが」のキャラクターの不死性に対する違和としての、「死」の導入。しかし第2に「GHQ占領下」におけるディズニー再受容を通じ、戦時下に抱え込んだ暴力性の「武装解除」。 だからこそ手塚の主人公たちは、ディズニー的なキャラクター性を継承しつつも傷を負い得る身体性を抱え込み、戦闘場面においても快感原則に身を委ねて兵器化したりせず(初代アトムの、お尻に機関銃装填というカッコ悪さ!)、内面性を肥大化させていく。 まんが/アニメへの国家の介入に対する本書の嫌味・罵倒も痛快だが、それはともかく…私は本書でようやく、戦後民主主義・憲法への大塚の拘泥が腑に落ちた。まんが/アニメに「日本の伝統」を僭称させて国家意識再建の一翼を担わせようなんてヤツラこそが、戦後まんがの固有性を切り捨ててしまうように、「自主憲法」に発情する愛国者連中こそが、「世界標準の国家」構築のために戦後日本の暗中模索をご破算にしてしまう、というワケだ。 大塚氏が、戦後まんがに対する自分の愛着を肯定するためにここまで辿り着かなくてはならなかった、そして辿り着いたことに、感動する。
・「第二部は説得的」
1958年生まれの戦後民主主義に肯定的なまんが原作者・編集者・評論家と、1976年生まれの左翼的評論家が(両者の役割分担については287頁参照)、「まんが/アニメーションにとっては決してプラスになるとは思えない」ジャパニメーション国策化の動きの無効・無根拠性を徹底批判するために、2005年に刊行した本(みなもと太郎も関与)。第一部は日本の漫画・アニメ史のイデオロギー批判的な回顧であり、1)現在の日本の漫画・アニメがディズニー・ハリウッドの二次制作として始まり、その結果美術から自立して記号的・無国籍的なキャラクターを生み出したこと(これが普及の原因であるとされる)、2)戦時下の要請により、科学的な兵器リアリズムと透視図法的な映像的手法を駆使し、記号的な不死の身体性を持つ主人公を使い、鳥瞰的に物語を構成するという、戦後漫画の基本形ができたこと、3)戦後に手塚治虫が記号的なキャラクターを受肉させ、内面を持たせた上で、倫理的に暴力性を抑止したが、70年代以降徐々にこの抑止が解除されていったことが述べられる。著者はこの3点を踏まえて現在の国策化に警鐘を鳴らすが、言わんとするところは分かるけれども、正直言って批判としては抽象的すぎる感が否めない。他方、第二部は国策化推進派のレポートの分析であり、内外の漫画・アニメ市場の狭さ、配給ルートを支配するハリウッドの圧倒的な経済的な強さ、オタク市場の「国辱的」要素の強さと収益性算定の困難さ、アニメーター養成プログラムの問題性等が指摘され、漫画・アニメが現在十分自律的にやっていける以上、対米追随と利権のための国策化は拒否する、という結論が導かれる。この第二部は説得的に思える。総じて、第一部と第二部のつながりが希薄であるように思えるが、興味深い本ではあった。
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